個人的なことを書きます。
ブログだから個人的なことしか書いてませんけど、いいですよね。
甥っ子の話です。
小さいころからキャッチボールをして、バットの振り方を教え、野球の手ほどきをしたのは、ボクでした。
男親のいない甥っ子の、せめてひと時だけでも父親代わりをと思って、自ら進んでその役目をしていました。
小学校にあがると、ボクの親父が設立し、ボク自身も在籍していた地元の少年野球チームに入り、緑のユニフォームを着ては喜び、無邪気に白いボールを追っていましたね。
親父が亡くなったとき「実家に男はオマエ一人だから、オフクロと姉を頼んだぞ!」と小学生の甥っ子に変なプレッシャーを与えてしまった、ゴメンなさい。
中学に進学する前の春休み、野球を続けるかどうか迷っていた甥っ子を誘って、というか半ば強引に甲子園まで連れて行って、春のセンバツを観に行きました。
いや、応援しに行ったという言い方が正しいかも。
なぜならボクの母校が久しぶりに甲子園に出ていたから。
マウンドに立っていたのは斎藤佑樹。
駒大苫小牧に代わって出た北海道栄高校との試合、勝って帰りの新幹線、騒いで帰ってきたのを覚えてます。
中学でも野球を続けた甥っ子とキャッチボールをしたとき、投げる球を受けて、ずいぶん上手くなったと思ったものです。
高校に入学したときは迷わず野球部に入りましたね。
ミズノに勤める後輩に割引を頼んで、神田まで硬式のグローブを一緒に買いに行ったっけ。
レギュラーになった2年の夏、思うようなプレーをできず、初戦敗退。
新チームになって、キャプテンを命じられて、具合が悪くなるほど、悩み戸惑っていたのを知ってます。
夏合宿を前に、コーチを正式にお願いされたときは、正直嬉しかったなあ。
野球で受けた恩は野球で返せ!早稲田の野球部の教えですから。
それから1年、週末のたびに学校に行ってはノックをふるい、走らせ、怒り、檄を飛ばして、選手にとってはウザイ存在だったかもしれないけど、ボクは充実してました。
そうそう、学生野球の醍醐味を知って欲しいと去年の秋、六大学野球の優勝決定戦にも一緒に行きました。
あのとき、マウンドに立っていたのも斎藤佑樹だった。
何かのめぐりあわせかな?
早稲田が勝って、一緒に「紺碧の空」、早稲田大学の校歌を歌ったとき目を輝かせていたっけ。
震災の影響で春の大会に出れず、残念だったけど、
野球したくてもできない高校生がいるんだ!
野球できる幸せを噛みしめよう!
なんてことも言ったかな?
5月に練習後の悪フザケで、同級生が全治3カ月の重症を負った事件がありました。
その同級生にもう一度ユニフォームを着せたい。
そのためには何としてでも夏の予選を突破して甲子園に出よう!
甲子園に連れて行ってやるんだ!
とチームメイトに話している姿は、誰もが認めるチームのキャプテン。
立派になったとつくづく感心したものです。
ボクも高校のとき副キャプテンをしていたけれど、そんなこと言えなかったもんね。
そして、ぶっつけ本番で迎えた最後の夏の大会。
相手は都立大山高校。
1アウト満塁で迎えた最後の打席、結果は空振り三振。
試合は3-11で7回コールド負け。
悔しいなあ。
ホントに悔しい。
甥っ子の成長を見続けてきた18年間、そして3年生とともに歩んできた
この1年間だったから、せめてあと1試合野球をしたかった。
勝つ喜びを分かち合いたかった。
オマエともう少し野球をしたかった。
アイツらともう少し野球をしたかった。
熱い夏を過ごしたかった。
でも、それも叶いません。
これもまた人生。
最後の打席、三振した悔しさを人生のバネにして生きていかねばなりません。
引退する3年生は、この悔しさを背負って生きていくのです。
2年生、1年生はこの悔しさを心に刻んで練習していくのです。
悔しさの引継ぎこそが高校野球。
連綿と続く無念の想いが、その高校の野球部を強くさせるのです。
試合後、泣き崩れる甥っ子にうまく言葉をかけてやれませんでした。
肩に手をあてて一緒に泣いてあげるのが精一杯。
野球には負けたけど、確かに得たものはありました。
目標に向かって努力していく姿勢。
そして互いに励ましあい、一生懸命練習をともにした同級生。
一生の友人です。
大事にしてください。
人生の中で勝つ喜びを手にするのは、まだまだ先の話。
そのときは一緒にお祝いしよう!
この夏、グラウンドを一生懸命、駆けていた背番号8の君をボクは忘れない。